古典の翻訳について
先日読み終わったばかりのドストエフスキーですが、光文社から出ている新訳を読みました。
光文社古典シリーズは、今まで古臭い日本語だった古典の翻訳作品を読みやすい日本語で新訳したことで人気なのであります。
確かに読みやすかったのですが、ふと思ったのは、ドストエフスキーって100年以上も前の人で、日本で言ったら明治時代の人なんですよ。
そんな人が、たとえロシア語だからと言って今と同じ言葉づかいで書いていただろうかと。
日本語で例えると夏目漱石とか森鴎外みたいな言葉遣いで書かれていたのではないだろうかと。
だとすると、ドストエフスキーを読みやすく新訳しましたということは、夏目漱石を読みやすく今の言葉遣いに直しましたって言ってるのと同じになりますね。
そういう意味かどうかは知りませんが、光文社の新訳古典シリーズは批判もあるようです。
が、僕が思うに光文社の古典新訳シリーズは、そういった古臭い言葉遣いでの翻訳はすでにたくさん出ているのでそういうのはもういいでしょうと、ここはひとつチャレンジングではあるものの、読みやすさを重視して新訳出してみましょうか、といった開拓精神であると評価しています。
事実、僕なんかは光文社の翻訳を読んだので、次回は新潮文庫や岩波文庫の翻訳も読んでみたいなーと思ってますからね。
古典の名作に触れる機会を広げたと言う意味で、とても価値のある挑戦なのではないかと高く評価しています。
今日は偉そうなことをいってしまいました。
夜も遅い(2時過ぎ)ので眠い目をこすって書いています。
ではでは